ベルティーニ Bertini, Henri 1798~1876
作曲家解説
2011年5月 執筆者: 上田 泰史
初級・中級者向けの「練習曲」によって名を成した作曲家たちは、往々にしてその本性を歴史の暗がりに隠したまま、静かに再評価の時を待っている。ウィーンのカール・チェルニーと同様、パリのベルティーニもまた多作な練習曲作家というレッテルを長きに亘って甘受してきた。ベルティーニの20作を越える大小様々な練習曲集のうち、幾つかは今なお出版され続け、手ごろな教材として利用されている。だが、今日我々がもつベルティーニについての知識は、それが全てである。 教育的な作品が、他のジャンルの作品に比べて残りやすいというのはある意味では当然のことかもしれない。19世紀を通して国公立の音楽院教育が急速に整備されるに従い、教授法も次第に画一化していった。ピアノの普及に伴う音楽院の学生の増加によって、より効率のよいカリキュラムが重視されるようになると、必然的に教育に利用されるレパートリーは限定されていく。そうして制度化された教育システムの中に組み込まれた作品が、教育システムと共に長い命脈を享受するのである。 …続きを読む だが長い歴史のなかで教育制度は変化する。この変化の波を幾つも越えて残り続けた作品がいま、我々にアクセス可能な作品といえる。
ベルティーニの作品は没後およそ140年の間にその大部分が篩(ふるい)の網目から抜け落ちてしまった。再評価の兆しも殆どない。彼の場合、練習曲作家として名前が残ってしまったことが、却って作曲家としての正当な評価を妨げているようである。生前のベルティーニを知るパリ音楽院教授A.-F.マルモンテル(1816~1898)は彼に対する当時の評価に関してこう証言している。
[…]彼の練習曲の人気のために、凝り固まった大衆の精神のなかに輝かしくも危うい特殊な領域が彼のために作り出された。このジャンルの作品を崇拝する人々は、もっと大きな価値を持つ諸作品を評価することに対して、耳目を閉ざしてしまったのだ。
だが今や彼の練習曲のもっとも充実した部分さえ忘却の淵に沈んでしまった。
アンリ・ベルティーニは1798年10月28日、トゥール出身のイタリア系作曲家ガブリエル・ベルティーニ(1746~1819)の息子としてロンドンに誕生した。18歳年の離れた兄オーギュスト・ベルティーニ(1780~ ?)もまた著名な作曲家・ピアニスト・教師ムツィオ・クレメンティに師事した音楽家で、多くのピアノ曲を出版している。アンリ・ベルティーニは幼少期にパリに移り、父と兄から音楽とピアノの手ほどきを受け、直ちに才能を開花させた。1811年、13歳の時には父に連れられて演奏旅行に出かけ、ベルギー、オランダ、ドイツで演奏した。その後パリで作曲の勉強に専念したのち、イギリス、スコットランドを訪れ、20歳を過ぎるまでイギリスに住んだ。ベルティーニがパリに住み始めるのは1821年のことである。
パリでベルティーニは作曲家、ピアノ教師としての名声を高めていった。教育的素質に恵まれたベルティーニは多くの生徒を抱え、弟子たちのために最初の練習曲集《24の練習曲》作品29を出版した。以後、練習曲の作曲は彼のライフワークとなり、20集以上の練習曲集を手掛けることとなる。パリで最初のヒット作となったのは《25の性格的練習曲》作品66(1828)だった。パリ音楽院に献呈されたこの練習曲集は演奏技法の上達を目的としながらも各曲が歌唱的あるいは交響的といった様々な表現様式(すなわち様々な「性格」)で書かれている。彼の作品66は「性格的」という形容詞を冠する練習曲としては最初期の例であり、H. ラヴィーナ(1818~1906)やJ. ローゼンハイン(1813~1894)など1810年世代以降の若いヴィルトゥオーゾたちにとって「練習曲集」の一つのモデルとなった。ピアニスト兼作曲家、教育者の鏡として、ベルティーニは30年代、パリ音楽院の選抜試験の審査員に招かれ、ピアノ科教授ルイ・アダンの求めに応じて音楽院女子クラスの試験課題曲(作品109, 1836 ; 作品121, 1838)を書いた。
オペラの主題にもとづく幻想曲などが流行していた30年代と40年代、リストをはじめとする多くのヴィルトゥオーゾたちは野心と闘争心を燃やし、先を争って華麗なパラフレーズを書いていたが、ベルティーニは冷静さを失わなかった。ピアノのためのノクターン、ポロネーズ(作品93、1834頃)そして時折オペラ主題に基づく変奏曲を書く傍ら、彼はピアノ三重奏曲(初期の作品を含め全5曲)、ピアノと弦楽器のための6重奏曲(全6曲)、ピアノと弦・管楽器のための9重奏(作品107)、など大規模な古典的ジャンルに力を注いだ。彼の大規模室内楽は、当時ベートーヴェン、フンメル、モシェレスのそれらと並び称され、作曲の模範として長く賞賛され続けた。19世紀における管弦楽法の大家、エクト-ル・ベルリオーズはベルティーニの室内楽作品を非常に高く評価音楽家の一人である。さらにベルティーニは1840年代の初めに二作の交響曲(作品133、138)を、44年と45年に3つのヴァイオリン・ソナタ(作品152、153、156)を出版した。交響曲はフランス国立図書館には保存されておらず、現在のところ所在すら確認できないが、《ヴァイオリン・ソナタ》では虚飾を排した端正な形式美が際立っている。これらの古典的なスタイルの大作に加え、まとまったピアノ曲集としては2手、4手用の練習曲集のほかに《50の前奏曲集》作品141(1843)がある。この曲集はショパンのそれのように全調を網羅するものではないが、色とりどりの着想を練習曲の書法で簡潔にまとめたアイディアのカタログである。教育的な作品としては、練習曲のほかに二つの《ピアノ・メソッド》、練習課題集のほかにJ. S. バッハの《平均律クラヴィーア曲集》の連弾用編曲(1841)が興味深い成果といえる。もっとも簡素な曲でさえ、入念な配慮のもと二つのパートに配分され、時折控えめに音が加えられている。こうした彼の丹念な仕事には、ピアノ教師ベルティーニの比類ない想像力と良識、教育的配慮を見ることができる。
ベルティーニの作品出版は1850年代に入ると急速に減退する。50年以降は作品番号付きの作品を数曲しか出版していない(作品178~180)。最後の作品番号付きの作品は確認されている限り《音楽的素描―24の性格的な曲》である。「世を忍び、ありふれた友情にはほとんど関心を持たず、いくらか隠棲的な人」だったというベルティーニは、都会の生活に疲れたのか、結婚後フランス南東部に位置するグルノーブルに隠退し、静かに音楽活動を継続した。喧騒を嫌うベルティーニの体質は、マルモンテルによって次のように描かれている。
実直だが神経質な体質の彼は著名な芸術家やヴィルトゥオーゾ、あるいは作曲家に敬意を払ってはいたが、拍手喝采のざわめきは彼に苦痛をもたらした。そんなとき、彼は演奏会場から出て行ってしまうのだった。こうした奇妙な行動は神経過敏からくるのであって、狭量な嫉妬が原因ではなかったということを、私はいくらでも証言できる。
後にグルノーブル近郊の街メランに移った彼は、声楽協会を立ち上げ指導と声楽曲の作曲に力を注ぐようになった。作品番号なしで出版された複数の《アヴェ・マリア》、《アヴェ・ヴェルム》、《ミサ曲》などの宗教曲はこの時期の作であろう。信仰の中で永遠の理想世界を観想しながら日々を送った晩年、彼はグルノーブルの町グランド=シャルトルーズにある教会を訪れ、神秘的な霊感に浸ってオルガンで即興するのを好んだという。1876年9月30日、ベルティーニは他の著名な音楽家たちが与えられたような勲章を一つも受けることなく、静かに、安らぎのうちに77年の生涯を閉じた。
マルモンテルによれば、ベルティーニの演奏流儀は当時パリで最も権威的なピアニストであったF.カルクブレンナーやH.エルツを思わせる華麗な技巧で人々を惹きつけるよりも、フンメルやモシェレスのように巧みなフレージングによって楽器を歌わせる点に魅力があったという。実際、彼の書いた楽譜の多くは、30年代以降の大規模なピアノ作品においてさえ同時代のピアニスト兼作曲家たちの作品に比べれば音数が少なく、整然と音符が並んでいる。しかし、音はきわめて厳密に選択されているため、演奏においては楽譜の簡素な外見とは裏腹に驚くべき奥行が立ち上がる。楽器の発達に伴うピアノ書法の複雑化によって、ピアノの名手たちは多くの野心的な名作を生み出したが、ベルティーニは究極のスピードや大音響を演奏において実現することから意図的に距離を置いていたようである。あるいは喧騒を嫌う彼の芸術的体質は、進行する都市化・産業化が生み出した華々しい演奏スタイルとは相容れなかったのかもしれない。解説を折りたたむにはこちらをクリックしてください。
執筆者: 宮本 優美
フランスのピアニスト、作曲家。オギュスト・ベルティーニの弟。パリで幼年時代を過ごし、父から音楽の手ほどきを受け、クレメンティに学んだ兄からその成果を教え込まれた。
13歳のとき父の演奏旅行に同行し、ベルギー、オランダ、ドイツで演奏した。
作品には多数のロンド、ファンタジア、選抜試験用の独奏曲、演奏曲、ディヴェルティスマンなどがあり、練習曲は100年以上にわたって用いられた。
同時期に誕生した作曲家一覧
バルフェ
[1808-1870]
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