チューリッヒ近郊のラーヘンに生まれる。ピアニスト、作曲家、教師。シュヴィーツのイエズス会ギムナジウムで教育を受けた。1844年にピアノ曲op.2~6をメンデルスゾーンの推薦で出版される。1945年にフランツ・リストの演奏に影響を受け、彼についてドイツに行く。1946年ハンス・フォン・ビューロと出会い、生涯にわたる親交を結ぶ。1950年ワイマールにて楽長に就任したリストのもとで、楽譜の出版やパート譜の写譜、手稿譜の整理、編曲の手伝いなどの助手を務めた。1856年ワイマールでの職を辞し、ヴィースバーデンにて作曲に専念し、数多くの作品を遺した。1857年にピアノと管弦楽のための《Ode au Printemps op.76》では、ビューロの初演にて行なわれ、成功を収めた。1977年にフランクフルトのホーホー音楽院の院長に就任し、作曲の指導にあたった。門下生にエドワード・マグダウェル、ヨハネス・メスハールト、アレクサンダー・リッターらがいる。…続きを読む彼の初期の作風はメンデルスゾーンの影響を受けており、op.1~46まで全てピアノ曲を書いている。後、リストなどの「新ドイツ派」の標題音楽に、対位法の技法やソナタ楽章の作曲における構成力を融合させようと試みるため、標題つきの交響曲作品や、ロマン派の作曲家が用いた主題をとりいれた交響曲作品が数多い。ピアノ曲、交響曲の他、協奏曲、室内楽、歌劇など沢山の作品を遺している。 解説を折りたたむにはこちらをクリックしてください。