モシェレスは1794年5月23日、プラハに生まれた。ユダヤ人の卸売業の父は早くから息子に音楽を学ばせた。地元の二人の音楽家から手ほどきを受けたのち、1804年よりプラハ音楽院の院長ドニ・ウェーバーのもとでJ. S. バッハ、モーツァルト、クレメンティの諸作品を徹底的に叩き込まれた。生来のすぐれた記憶力と勤勉な練習は彼を急速に進歩させ、12歳のときには早くも地元で公開演奏会を開いて喝采を浴びるほどになっていた。更なる音楽芸術の追究を夢見たモシェレスは1808年、大都市ウィーンに移住する。この地で彼は野心ある作曲家ならば誰もが教え乞うた二人の作曲家A.サリエリとアルブレヒツベルガーの門を叩いた。 彼は強い関心を寄せていたベートーヴェンをはじめ古今の様々な作品に身を浸しながら作曲と演奏の双方に等しい情熱を注いだ。1815年に出版された《アレクサンダーの行進》作品32は「出世作」と呼ぶに相応しい成功を収めた。…続きを読むこの年から、モシェレスはウィーンを離れてドイツ各地に演奏旅行に出かけ、ドレスデン、ライプツィヒ、ケルン、ミュンヘン、さらにはオランダ、ベルギーでも喝采を浴びるようになった。華々しい活躍の一方、《性格的ソナタ》作品27(1814)、《ピアノ協奏曲第1番》作品45(1819)、単一楽章からなる《ソナタ・メランコリック》作品49(1814~19、友人のピアニスト兼作曲家ピクシスに献呈)などにはこの時までに培った堅実な作曲の手腕を見ることができる。
1821年、熱烈な歓迎を受けたパリに別れを告げ、イギリスに渡った。大陸からくる大家に寛容なこの国で、彼は妻を娶りその後1846年まで25年間住み続けることとなる。ロンドンに居を定めたモシェレスはここで同地の名手でピアノのヴィルトゥオーゾとしては大先輩にあたるM. クレメンティ、J. B. クラーマーと知己を得た。生来人当たりがよく、敵を作らない紳士モシェレスは直ちに貴族や一般市民の間で人気を勝ち取り、多くの弟子を抱えるようになった。その中にはロンドン出身の若きヴィルトゥオーゾ、アンリ・リトルフ(1818~1891)やドイツからロンドンに渡っていたS. タールベルクが含まれる。モシェレスは常に若い音楽家たちの尊敬の的だった。1824年、15歳の若きメンデルスゾーンにベルリンで出会いレッスンを施し、その後この弟子がロンドンに来るたびに快く出迎え演奏会で共演した。1839年にはパリでショパンと自作の連弾ソナタ作品47を王族の御前で演奏している。イギリスで暮らすようになってからも彼はアイルランド、スコットランドや大陸の諸都市へ演奏旅行に出かけたが、25年に結婚し、さらに王立音楽院のピアノ教授、フィルハーモニー協会の指揮者を兼ねるようになってからはロンドンを留守にすることは少なくなった。