すべての長短調を網羅した24の前奏曲。1838年にマヨルカ島で完成された。これは、小説家ジョルジュ・サンドとの恋愛関係が始まって間もなくの時期であり、サンド一家の転地保養にショパンが同行した最初の機会である。ショパンはこの旅行を実現するためにパリでのレッスンをいくつも断り、一方で知人たちから少なからぬ借金をした。パリの出版家プレイエルが《前奏曲集》に前金を支払ったのも、旅行費用を援助するためだった。
実際の作曲年代はそれより古く、いくつかの曲はすでに1836年ころに着手されていたようだ。マヨルカへ旅立ったときにどれだけの曲が完成していたのかは不明だが、10月末にパリを出たショパンがこの曲集の自筆譜をパリに送り出したのが翌39年1月であり、さらにこの期間に病気で長く臥せっていたことなども考えると、おそらくショパン自身、マヨルカへ着く頃にはすでに曲集の全体がみえていたのだろう。ショパンにとって、
バッハ《
平均律クラヴィーア曲集》の伝統に連なる作品を残すことは、かねてからの願いであり、音楽家としての使命でもあったのだ。
《
練習曲集》においてショパンは、《平均律》の伝統を音楽内容と機能の面で継承したのだったが、《24の前奏曲集》では、同じ源泉からおもに曲集の外形を受け継いだ。マヨルカでのショパンの様子を伝える書簡からは、彼が四六時中バッハの楽譜を手放さずにいたことが判るが、《平均律》とショパンの《前奏曲集》の共通点はほとんど唯一、24の長短調で書かれていることだけである。
シューマンは次のように作品評を述べている。
実をいうと私は、もっと別なものを想像していて、彼のエチュードのような壮麗なスタイルで書かれているのだろうと思っていた。実際はまったく逆で、これらは音のスケッチ、エチュードの冒頭部分、あるいは言ってみれば廃墟、鷲の羽根、何もかもをごたまぜにしたようなもの、なのである。
つまり、なにか素晴らしい壮大な構造物の残滓あるいはごく一部であるような印象を受ける、ということである。実際、ここに含まれる曲には形式と呼べるようなものはまるでないし、譜面にして2-3段のものから2-3ページに及ぶものまで長さが様々で、曲の難易度もばらばらである。また、あらゆる技法の規範を示すという野心は投影されていないし、もちろん何かの音楽の「前奏」を務めるような機能も与えられていない。
もっとも、「前奏曲」という名称は、曲のさまざまな冒頭部分を集めたものという点で当を得ている。ショパンはこの曲集において、前奏曲というすでに古びた慣習を新たに解釈しなおし、一種の性格小品として扱ったといえよう。
なお、24曲の配列は《平均律》とは異なり、五度圏に基づいている。長短調は平行関係を一組とし、折り返し点ではシャープ6個の嬰ヘ長調を第13番、フラット6個の変ホ短調を第14番に置いている。各曲は完全に独立しているが、こうした配列によって、24曲を通奏する際により全体が緊密に繋がることになる。