1836年、彼はパリ音楽院ホールの聴衆の耳を釘づけにし、センセーションを巻き起こした。ジャーナリズムはリストと比較してタールベルクを賞賛し、なかば意図的に両者をライバルに仕立て上げようとしたために、スイスに滞在していたリストはパリに駆け付けることとなった。二人の競争はやがて37年、有名なベルジョイオーゾ王妃のサロンで行われた「決闘」に発展した。二人の「和解」を名目とした演奏会で、両者は華々しいオペラ・パラフレーズを弾き合い、王妃が「タールベルクは最高のピアニスト、リストは唯一のピアニスト」と二人の健闘を称えたことは良く知られている。
タールベルクの音楽書法が後世の音楽家たちに与えた影響は非常に大きい。彼が僅かな期間に音楽家たちの注目を集めたのは、左右の手が担う分散和音の間に旋律を置く独特の演奏法であった。下の譜例は彼のヒット作の一つ《ロッシーニの〈モーゼ〉に基づく幻想曲》 作品33(1833)の一節であるが、○で囲った音が主旋律、その上方の細かい音符と下方の分散和音が伴奏である。
左右の手の伴奏と中音域の旋律の三層からなるこの書法は、批評家たちがしばしば指摘したように、あたかも「三本の手」で弾いているかのような効果をもたらした。聴き手を幻惑させるマジカルなテクニックは多くのピアニストの間で一つの主要なピアノ書法として定着し、これを用いる創造力豊かな音楽家、例えばフランスのE.プリューダンのようなヴィルトゥオーゾたちによって新たな生命が吹き込まれていった。
タールベルクは1855年に大西洋を渡りアメリカ、ブラジル、キューバで演奏し成功を収めた。彼は1844年、著名な歌手ルイージ・ラブラーシュの娘と結婚していたが、58年にタールベルクは義父の領地であるナポリ近郊のポジリポに居を移し一時的に音楽界から身を引いた。1862年、再びパリでかつて喝采を浴びた幻想曲を演奏し、翌年にはまたブラジルに演奏旅行にでかけた。数知れない演奏旅行を重ねたのち、彼は音楽界から完全に引退し、ポジリポでブドウ園を経営しワイン商を営み余生を過ごした。
ショパンに比べてオリジナル曲が少ないために、タールベルクはこれまで作曲家として十分に評価されてこなかった。だが、マルモンテルが指摘するようにオペラの主題による優れたパラフレーズを書くにも、主題の選択やその展開、序奏、経過部分を巧みに扱う才能が必要である。実際、タールベルクが確かな手腕と豊かな着想を持つ作曲家であったということは、《12の練習曲》作品26のほか、一曲の《ピアノ・ソナタ》作品56、《ピアノ三重奏曲》作品69、《バラード》作品76、そしてポジリポでの生活から霊感を得た珠玉の小曲集《ポジリポの夜会―ロッシーニ賛》作品75など、彼の数少ないオリジナル作品が物語っている。また、彼の《ピアノによる歌唱法》作品70は声楽曲の極めて堅実な編曲集であり、ヨーロッパの多くのピアノ学習者たちに親しまれた。