ライプツィヒ大学への入学と音楽への傾倒
1828年にギムナジウムを卒業すると彼は、父親を失った家庭の状況に鑑みて音楽家ではなく正業に就いてもらいたいという母の意思を汲んで、ライプツィヒ大学法学部に進学する。しかし、音楽への情熱はますます募り、ピアノを熱心に練習することに加えて、未完の「11の歌曲集」(1827-28年)や「ピアノ四重奏曲ハ短調」(1828-29年)、ピアノ連弾のための「8つのポロネーズ」(1828年)などを作曲する。これらは1830年代前半における彼の創作の出発点としてきわめて重要な作品群である。「11の歌曲集」のなかの歌曲はそれぞれピアノ・ソナタ第1番と第2番に引用され、この二つの作品において作品の内容を暗示する象徴的な役割を担っている。「ピアノ四重奏曲ハ短調」は堂々とした作品で、彼は後に交響曲にまとめ直す意図をもっていた。この第4楽章は「パピヨン」(作品2)の第10曲に転用される。1828年作曲の「8つのポロネーズ」は彼のシューベルト研究と受容の成果で、このポロネーズも同じく「パピヨン」に引用されている。
フリードリヒ・ヴィークにピアノの指導を受けるようになるのもこの1828年で、彼は大学の講義にはほとんど出席せず、音楽に熱中する。彼は法律の勉強を傍らにおいて、音楽に情熱を燃やしていることを母親にさまざまな形で伝え、音楽に進むことの許しを求めようと努める。
1829年にハイデルベルク大学でも学ぶが、同大学の法学者であり、ア・カペラの宗教音楽の賛美者でもあるティボー教授を通して、さらに音楽熱が高まる。この頃のシューマンは演奏活動も活発で、シューベルトのピアノ三重奏曲やモシェレスの作品「アレクサンダー行進曲による変奏曲」などを演奏している。
ピアノ音楽に魅せられた1830年代
1830年代の創作はクララとの出会いと、愛の予感、愛の確信、そして結婚への困難な闘いと密接な関連を持っている。まず、この1830年代のピアノ創作の特質を列記することにしたい。
(1)管弦楽創作の理想
1830年代前半の創作を特徴付ける一つは、管弦楽への志向である。彼は初期にいくつもピアノ協奏曲の作曲を試みていた。「アベッグ変奏曲」(作品1)はピアノとオーケストラの編成でも構想されており、シューマンの草稿によると、オーケストラによる前奏に続いて、ピアノ独奏が主題を演奏する構成になっており、前奏の最後にホルンがABEGG(イ、変ロ、ホ、ト、ト音)の主題を演奏する構想になっていた。この管弦楽の発想との結びつきは、彼のとくに1830年代前半のピアノ作品に数多く見ることが出来る。「パピヨン」(作品2)の第10曲は、「ピアノ四重奏曲ハ短調」の第4楽章の素材が用いられているが、この四重奏曲は交響曲への改作が試みられており、冒頭のリズム動機ではホルンの音色が意図されていた。また、同じ「パピヨン」の主要動機については、「交響曲ト短調」第1楽章の主要主題とも関連も指摘されている。
(2)「練習曲」の理想
彼は「練習曲」に強い関心を持っており、彼の批評集「音楽と音楽家」においてもっとも多くの誌面を割いて取り上げているジャンルの一つが練習曲で、それは「目的別練習曲」のいわば「体系」にまとめられている。
「トッカータ」(作品7)は、フンメルの「ピアノ・ソナタ第5番」に加えて、
オンスロウの「トッカータ」の影響をうけて作曲された作品で、「重音の練習」が意図されていた。練習曲の思想はパガニーニとの出会いにも関連しており、上記のように「パガニーニの《カプリス》による練習曲」(
作品3、
10)はパガニーニの技巧をピアノにも応用した試みで、リストの同様の試みの嚆矢となっている。リストは「パガニーニによる超絶技巧練習曲」において明らかにシューマンのこの2集の練習曲を意識している。作品番号が与えられなかった
「ベートーヴェンの主題による自由な変奏曲形式の練習曲」(Anh.F25)は
「交響的練習曲」(作品13)へと受け継がれた作品として重要で、練習曲としての演奏技巧と変奏手法との融合が図られている。
(3)「変奏曲」――万華鏡のように変転するイメージ
19世紀前半においてシューマンほど変奏曲を深く追求した作曲家はいない。すでに取り上げた
「アベッグ変奏曲」(作品1)は、これまでにない独自の変奏技法を用いた作品で、主題が原型のまま提示され、同時に主題の冒頭の2音が書く変奏曲の主要動機に用いられている。
「交響的練習曲」(作品13)も変奏曲であるが、「アベッグ変奏曲」と同様、主題を変形するのではなくそのまま提示する手法と、カノンやフーガ、フランス風序曲などのバロック時代の作曲様式と主題の変容の書法をさまざまに複合的に用いている。「変奏曲」とは名乗っていないものの、
「クララ・ヴィークの主題による即興曲」(作品5)も変奏曲である。この作品ではクララの主題(クララ・ヴィークの作曲した
「ロマンス・ヴァリエ」の主題)と、左手で重々しく奏される「バッソ・オスティナート(「しつこい低音」という意味で、バロック時代に盛んに用いられた)」風の主題の二つの主題による変奏曲である。シューマンの代表作
「謝肉祭」は、もっともシューマンらしい作品である。これもスフィンクスの主題による一種の変奏曲である。
(4)音楽の寓話
シューマンのピアノ作品が
メンデルスゾーンや
ショパン、
リストと大きく異なるのは、音楽が一種の「寓話」に仕上げられている点である。その背景を成しているのが文学作品との関連であり、また「物語」の発想である。たしかに作曲後に跡付けの形で寓話化された作品ではあるが、
「パピヨン」はジャン・パウルの「生意気盛り」を背景にしており、「仮面舞踏会」という発想は、
「謝肉祭」(作品9)に受け継がれている。さらに「謝肉祭」では「ダヴィッド同盟」というシューマンの構想した芸術の真実を追求する団体の思想も重ねられており、大衆文化と芸術という構図に仕上げられている。この「ダヴィッド同盟」という寓話は、シューマンがフリードリヒ・ヴィークの猛反対を受けていたなかで、クララとの結婚を夢想して作曲した
「ダヴィッド同盟舞曲集」(作品6)にも受け継がれている。
音楽による寓話の発想は、ホフマンの小説を背景とした
「クライスレリアーナ」(作品16)や
「子供の情景」(作品15)だけではなく、その後の、マリーの成長日記として作曲が開始された
「子供ためのアルバム」(作品68)やハリリのマカームを背景とする
「オリエントの絵」(作品66)、
「森の情景」(作品82)などの作品にも反映されている。
(5)主題の「引用」-―言葉と音楽
シューマンの創作は、主題の引用が多いのが特徴である。主題は自分自身の主題の引用のこともあるし、他の作曲家の主題の引用の場合もある。ピアノ・ソナタ第1番や第2番では自分自身の作品の歌曲の旋律を引用して、この主題が作品の内容の中心をなしている。シューマンはなぜこのように主題を引用したのであろうか。それは、主題が一種の「言語」の役割を持っていたに違いない。とくに引用が多いのが
クララ・ヴィークの作品である。
以下は、主題の引用の一覧である。
(6)ロマン派の時代のソナタの発想
1830年代に完成したソナタは3曲である。しかし、1830年代の10年間に、第1楽章のみ完成された
「アレグロ」(作品8)は別にして、少なくとも10数曲のソナタが構想され、また作曲が試みられた。そのなかでも重要なのは
「ピアノ・ソナタ第4番 ヘ短調」(Anh.F28)で、1836年から37年にかけて着手された。そして1837年にさらにト長調のソナタにも取り組んだが、これも断片に終わっている。
シューマンは新しい19世紀ロマン主義の時代のソナタを模索したが、彼の新しいソナタの理念はおそらく
「幻想曲」(作品17)にもっとも美しく集約されていると見ることができる。彼は
「アレグロ」(作品8)や
「ピアノ・ソナタ第1番」(作品11)において主題と形式の新しい関係を模索することを通して、従来のソナタ形式の枠組みから自由になることができたと思われる。その後、
「ピアノ・ソナタ第2番」は古典的な形式の枠組みを尊重しているが、
同第3番は当初は5楽章のソナタとして構想され、その後、出版社のハスリンガーの意向を受けて「管弦楽のない協奏曲」という標題を与えられるが、改訂版では4楽章のソナタとしてまとめなおされた経緯があった。この作品は、
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「熱情」の理想を一つの背景としつつ、ロマン派の時代のソナタのひとつの到達点を示している。
「ウィーン謝肉祭の騒ぎ」をソナタとして解釈する説が見られるが、この作品の構想の生成を考えるに、慎重にあるべきであろう。
1830年代前半のシューマンの人生と創作(1830年~1835年)
1830年、シューマンはフランクフルトでパガニーニの演奏に接し、強い衝撃を受ける。このパガニーニ体験は、やがて「パガニーニの《カプリス》による練習曲」(
作品3、
10)の作曲に結びつくことになる。ちなみに彼が晩年、エンデニヒの施設で取り組んだのはこの《カプリス》のピアノ伴奏付けである。この年、ライプツィヒに戻ると、ふたたびヴィークにピアノを学ぶとともに、トマス教会のカントールのヴァインリヒに作曲を師事している。さらに1831年からはライプツィヒ宮廷歌劇場の音楽監督であるハインリヒ・ドルンにも師事している。このドルンのもとでの指導は彼の創作においてきわめて重要で、その対位法学習の成果は、
「パピヨン」(作品2)や
「即興曲集」(作品5)、
「ベートーヴェンの主題による自由な変奏曲形式の練習曲」(Anh.F25)などの初期の作品に反映されている。この年(1830年)、作品1という作品番号を付して
「アベッグ変奏曲」を完成する。この作品に対して母親は祝福し、シューマンは晴れて音楽家としての道を歩むことを許される。しかし、この作品に対する批評は芳しくなく、とくに音楽界で発言力を持つ批評家のレルシュタープは酷評する。
シューマンが「ダヴィッド同盟」という発想を抱いたのは1831年頃で、シューマンは自分自身の分身としてフロレスタンとオゼビウスという人物像を作り上げるとともに、彼が身近に接していた人物をこの同盟員に仕立てている。この「分身」という発想は、ジャン・パウルの小説「生意気盛り」に登場するヴルトとヴァルトに由来している。シューマンが同盟員とした人物のうち、ラロはフリードリヒ・ヴィークであり、ツィリアはヴィークの娘のクララであり、カリタスはこの時期にシューマンが親しく交際していたクリステルという女性にあたる。その後、シューマンはこの同盟員の数を拡充しており、たとえばシューマンが「真のロマン主義者」と絶賛したシュテファン・ヘラーもダヴィッド同盟員に加えられ、彼は「ジャンキリト」という名前でシューマンが編集を行う「音楽新報」に寄稿している。
シューマンが交響曲作曲という目標を持っていた。それは音楽界でその地位を確立する上で、交響曲やピアノ協奏曲の創作は一つの里程標となっていたためでもあり、初期のシューマンの創作の試みの中でピアノ協奏曲が数多く試みられているのはその現われでもある。シューマンはドルンのもとで作曲の基礎を学ぶとともに、ゴットリープ・ミュラーに交響曲の創作の指導も受けている。その成果として「交響曲ト短調」が作曲される。この1831年から32年にかけて作曲されたピアノ作品は
「パピヨン」(作品2)や、「ロ短調のソナタ」として作曲が進められた作品の第1楽章である
「アレグロ」(作品8)、
「パガニーニの《カプリス》による練習曲」(作品3)などの作品である。
「ピアノ・ソナタ第1番」の作曲が開始されるのも1832年である。
「交響曲ト短調」の創作に従事していていた1832年から右手の中指に麻痺の症状がはじまる。この麻痺の原因については、指の訓練用機器の影響によるとの説が一般的であったが、この麻痺が拡散していっていることから、ジストニアという病名の可能性も指摘されている。シューマンは、動物の生き血に指を浸すという治療法を試みるが麻痺の症状はまったく改善せず、彼は深い絶望に陥る。
こうした状況の中で、シューマンは生来の文学好きもあり、音楽雑誌の刊行を計画する。この計画は出版社との交渉などで難航するものの、1834年に実現し、「音楽新報」として刊行される。シューマンは、指の麻痺からくる絶望と、さまざまな企画や構想に見られるような躁状態の極端な精神状況が見られる。彼がさらに絶望に陥る出来事として、1833年10月に兄嫁ロザーリエが、11月に兄ユーリウスが死去したこともあげられる。
シューマンは多くの音楽家の才能に驚嘆し、批評においてさまざまに評価したが、彼がもっとも評価した一人が、若くして亡くなった
ルードヴィヒ・シュンケである。シューマンは
シュンケの「
ピアノ・ソナタト短調」を絶賛しており、彼に
「トッカータ」(Op.7)を献呈している。そのほか、やはり早世した
ノルバート(ノルベルト)・ブルグミュラーもシューマンがその才能を高く評価した音楽家である。
1833年に作曲された作品として
「ベートーヴェンの主題による自由な変奏曲形式の練習曲」(Anh.F25)があるが、この作品は
「交響曲的練習曲」(作品13)と密接な結びつきをもつ作品として、さらに彼の対位法の学習過程を示しているという意味で大きな意味を持つ作品である。さらにこの年に
「謝肉祭」(作品.9」や
「ピアノ・ソナタ2番」(作品22)の作曲にも着手している。
シューマンの生涯の活動の中で大きな意味を持った一つが「音楽新報」の創刊である。1834年に創刊され、今日まで継承されているこの音楽雑誌は、シューマンの創作だけではなく彼の音楽観や美学の披瀝の場ともなっており、そこに盛り込まれた膨大な音楽作品に関する批評は、そのまま当時の音楽の状況を映し出す鏡ともなっている。
この年、シューマンはヴィークの生徒となったエルネスティーネ・フォン・フリッケンと恋愛関係となる。エルネスティーネの父は音楽愛好家でもあり、シューマンはフリッケン男爵家との結びつきを求める。フリッケン男爵の作曲した旋律を主題として作曲されたこの変奏曲が
「交響的練習曲」(作品13)である。この作品は変奏曲であるとともに練習曲でもあり、この作品の中の一曲は
「ベートーヴェンの主題による自由な変奏曲形式の練習曲」(Anh.F25)からの事実上の借用である。終曲にマルシュナーのオペラ「聖堂騎士とユダヤ女」からの合唱曲「誇らしきイギリスを歌う」の主題が引用されている。作品は最終的にイギリスの作曲家スタンデール・ベベットに献呈されるが、ベネットと知り合う前にこの変奏曲は作曲されていることから、この引用はベネットを表しているのではない。マルシュナーのオペラはこの当時のドイツでは頻繁に上演されていた。
上記のような経緯からシューマンはこの年(1834年)、エルネスティーネと私的に婚約する。シューマンは自身の音楽文字(名前から音名に当たる文字を抜き出したもの)「Asch」が、エルネスティーネの生まれたAs(発音はAsch)と同じであることも述べており、彼女との将来を夢見ていた。その思いは、この年に作曲された
「謝肉祭」(作品9)にも反映されている。この「謝肉祭」に含まれている「エストレッラ」は、シューマンの最初の伝記を執筆したヴァジェレフスキーによるとエルネスティーネを表しているとされる。1830年代の創作の頂点とも言うべき
「謝肉祭」は非常に複合的な作品である。この冒頭の「前口上」は、未完成に
「シューベルトの《憧れのワルツ》の主題による変奏曲」(1831/32~34年作曲)の「マエストーソ」の部分の転用であり、作品全体はシューマンの音楽文字「Asch」の音名をもとに、前半はイ、変ホ、ハ、ロの各音を主題として用い、後半は変イ(As)、ハ、ロの各音を主題として用い、その結果、前半は変ロ長調の傾向が強く、後半は変イ長調の傾向が強い。
「謝肉祭」にはクララの作曲したワルツの旋律が引用されていることにも示されているように、シューマンの視野の中に、ヴィークの娘クララの存在が意識されるようになってくる。クララへの思いから次第にエルネスティーネに対する愛情は冷めていき、やがて1835年11月、シューマンは婚約を破棄するに至る。シューマンはクララに対する愛情を深く抱くようになり、その愛の深まりは彼の日記に記されている。
1835年にシューマンは、
メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者として就任し、ライプツィヒを本拠地とするようになったことが縁となり、
メンデルスゾーンとの交流が始まる。さらにこの年、
ショパンがライプツィヒを訪問しており、やがてシューマンは
「クライスレリアーナ」(作品16)を
ショパンに献呈することになる。音楽批評において、「諸君脱帽したまえ、ここに天才がいる」という名文句で紹介したショパンの
「ドン=ジョヴァンニの《奥様お手をどうぞ》による変奏曲」(作品2)を嚆矢として、シューマンは数多くのショパンの作品を批評の対象としている。この年に
ピアノ・ソナタ第1番(作品11)が完成し、
ピアノ・ソナタ第2番も書きあがるが、第4楽章に対してクララから批評を受け、1838年に新しい第4楽章に差し替えて完成することになる。この2曲のソナタとも、自作の初期の歌曲集「11の歌曲集」のリートを借用している。第1番のソナタでは、「アンナに寄す」が第2楽章に借用されているほか、第1楽章の序奏の部分にも用いられて作品の内容的な中心となっている。さらに、第1楽章ではクララの
「4つの性格的小品」(作品5)の第4曲「幻想的情景 亡霊たちの踊り」が引用され、さらに自作の「ファンダンゴ」の旋律も引用されている。
1830年代後半のシューマンの人生と創作(1836年~1839年)
1836年、シューマンの母親が没する。シューマンにとってとくに精神面において母親の存在は大きなものがあり、シューマンの音楽活動に対する理解者でもあった。しかし、シューマンは母親の埋葬には立ち会っていない。シューマンにとってはもっと重要な事柄があった。それは、クララに会うことである。シューマンはフリードリヒ・ヴィークにクララへの愛を表明するが、強く拒否され、完成間もない
「ピアノ・ソナタ第1番」を送付するものの、父ヴィークに命によって返送される。ヴィーク家においてクララは、フリードリヒの先妻の子で、フリードリヒは後妻を迎えていた。さらにクララの実の母親はバルギールと再婚しており、彼女は非常に複雑な家庭環境のなかにおかれていた。1836年から翌年にかけて、シューマンはクララとの将来がまったく絶望的な状況に置かれたことから、極度の欝状態に陥り、音楽活動もほとんど停止の状況になる。
そのようななかで1837年8月14日、シューマンは手紙の中でクララと婚約する。そして自身とクララとの結婚式の前夜祭(ポルターアーベント)の舞踏会の状況を想定した
「ダヴィッド同盟舞曲集」(作品6)を作曲し、クララの誕生日(9月13日)に父ヴィークに彼女との結婚を申し込むが拒絶される。この
「ダヴィッド同盟舞曲集」の冒頭にはクララの作曲した
「マヅルカ」(「音楽の夜会」作品6の第5曲)が引用されている。この年に作曲された
「幻想小曲集」(作品12)は、ライプツィヒを訪れたスコットランドのピアニスト、アンナ・ロベーナ・レイドロウに捧げられている。絶望的な感情が交錯する
「ダヴィッド同盟舞曲集」に対して、
「幻想小曲集」は伸びやかな楽想の作品である。第2曲「飛翔」の冒頭右手に登場する旋律が、翌年に完成される
「子供の情景」(作品15)の終曲「詩人は語る」のレチタティーヴォの旋律に用いられている。
結婚をめぐる緊張した中でも1838年は実りある創作の年で、子供のいる将来の家庭を題材にした
「子供の情景」(作品15)や、ホフマンの長編小説の主人公クライスラーを題材にした
「クライスレリアーナ」(作品16)、ボンにおける
ベートーヴェン記念碑の建立基金への寄付を意図した
「幻想曲」(作品17)、そして
「ノヴェレッテン」(作品21)などの作品が完成されている。
「子供の情景」は緩やかな変奏技法を用いて作品をまとめている。
「クライスレリアーナ」は、上記の「音楽の寓話」のカテゴリーに含まれる作品であるが、ト短調で表現されるクライスラーを暗示している部分を軸に組織的に構成された作品である。「幻想曲」では、フリードリヒ・シュレーゲルの詩を冒頭に掲げ、第1楽章では
ベートーヴェンの「遥かな恋人」の旋律が用いられている。この
ベートーヴェン記念碑建立は、当時のドイツにおいて高まっていた「ライン運動」という国家主義的な思潮とも連動した企画である。フリードリヒ・シュレーゲルの兄のアウグストが中心になってこの記念碑建立の寄付を呼びかけたが、実際は思うように寄付が集まらず、過半を
フランツ・リストが拠出して完成した。
「幻想曲」はこの
ベートーヴェン記念碑の建立に貢献した
リストに献呈されている。
リストは返礼として、
「ピアノ・ソナタ ロ短調」をシューマンに献呈している。
フリードリヒ・ヴィークは、シューマンとクララの関係を引き裂くことを画策し、ライプツィヒ以外の場所に住むなら許してよいという条件を示す。そこで1838年9月、シューマンは、音楽雑誌の出版のことも考えてウィーンに出発する。ウィーンでは
シューベルトの兄フェルディナンドの知己を得、ハ長調の交響曲を発見するなどの成果はあったものの、検閲の厳しいウィーンでの出版活動に失望する。翌1839年3月、兄エドゥアルト危篤の知らせを受けてライプツィヒに戻る。シューマンとクララは改めて結婚への意思を固め、6月15日、クララは父フリードリヒ・ヴィークを相手取り、裁判所に法的な裁きを求める書類を提出するのである。この年(1839年)に作曲された
「アラベスク」(作品18)、
「花の曲」(作品19)、
「夜曲」(作品23)は、シューマンのウィーン滞在中に作曲された作品で、
「ウィーンの謝肉祭騒ぎ」(作品26)の第1曲で登場するフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」は当時のウィーンでは検閲の対象となっていた作品で、ウィーンの厳しい言論統制を風刺している。
「フモレスケ」(作品20)はこの時期のもっとも重要な作品であるばかりではなく、シューマンのピアノ創作のもっとも優れた作品の一つに数えられる。作品は1838年に作曲が開始され、完成は1839年ウィーンにおいてである。
1840年1月1日、クララはシューマンに手紙をしたためる。そこには次のようにしたためられていた。「1840年という年はとても特別のように思えてしかたがありません。とうとうこの年がやってきたのです。長く待ち望んでいた年で、私たちが永遠に結ばれる年です・・・あと4ケ月後にはわたしはあなたのものになるのです。それは本当に美しい季節です・・」
裁判所から結婚の法的な許可が下りるのは1840年8月1日である。シューマンとクララは9月12日に結婚式を挙げるが、その前日にシューマンはクララに歌曲集「ミルテの花」(作品25)を贈る。結婚式の翌日の9月13日はクララの誕生日である。
「歌曲の年」1840年
1840年に入ると、シューマンの創作はピアノ作品ではなく歌曲に向かう。この年は一般に「歌曲の年」と呼ばれる年で、「ミルテの花」に加えて「リーダークライス」(Op.24と、Op.39)、「詩人の恋」(Op.48)「女の愛と生涯」(Op.42)などの歌曲がわき出でる泉のように作曲された。
「管弦楽の年」1841年
翌年の1842年9月、長女マリーがー誕生する。この年は「交響曲第1番《春》」(Op38、初稿)、「交響曲第4番」(op.120、初稿)、「序曲、スケルツォ、フィナーレ」(Op.52)、「ピアノと管弦楽のための幻想曲」(後の
ピアノ協奏曲イ短調の第1楽章の初稿)などが作曲され、文字通り、「管弦楽の年」であった。交響曲第1番は「春」というタイトルで呼ばれるが、この作品には当初、次のタイトルが与えられたことに由来する。第1楽章「春の始まり」、第2楽章「夕べ」、第3楽章「楽しい遊び」、第4楽章「たけなわの春」。第1楽章の冒頭はファンファーレで開始するが、これは春の呼びかけを暗示している。なおこの作品もその後改訂稿が編まれており、改訂に際してタイトルは削除された。
交響曲第4番は、1841年9月13日、クララ・シューマンの21歳の誕生日に贈られた。作品は同年12月6日に初演されたが、聴衆の強い反応を得られず、また翌年2月の演奏会では「聴衆は拍手を惜しんでいる」とシューマンは述べているように、聴衆にあまり強い印象を与えなかった。また
ワーグナーはこの作品に「退屈な作品」と手厳しく批判している。この作品は本来であれば第2番交響曲となるべき作品であったが、彼は上記の批判を受けてこの作品の刊行を思いとどまり、10年の時を経て改訂を施して第4番(作品120)として世に送り出した。この改訂稿をまとめる段階で彼は「交響的幻想曲」の標題を考えたが、後にそれを撤回している。
「室内楽の年」1842年
1842年になると、「弦楽四重奏曲(Op41、3曲)、「ピアノ五重奏曲」(Op.44)、「ピアノ四重奏曲」(Op.47)が作曲され、室内楽が集中して作曲された。シューマンが室内楽に向かうのは1842年後半においてで、6月2日から7月22日までの短い期間に3曲の弦楽四重奏曲が作曲された。この作曲はおそらくメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲に示唆されたのは間違いなく、3曲ともメンデルスゾーンに献呈されている。この弦楽四重奏曲の作曲は、シューマンに新しい課題を提供するもので、1842年4月ころから集中的に弦楽四重奏の研究に入っている。日記によると、「4月1日、モーツァルトの作品の研究、4月28日ベートーヴェンの四重奏曲の研究、5月6日ハイドンの研究」と記載されており、これらの一連の研究が終わった6月2日に作曲に着手した。
「ピアノ五重奏曲」(作品44)は、弦楽四重奏曲の完成後の1842年9月23日に作曲の着手し、同月28日にはほとんど書き上げ、10月5日から清書に取り掛かっている。10月12日に清書が完了すると、シューマンは10月24日からピアノ四重奏曲の作曲に取り掛かり、同月30日には作品を完成する。シューマンの爆発的な創作衝動を反映して、作品は内側から沸き起こる独特の熱気が感じられる。
1843年にメンデルスゾーンを院長としてライプツィヒ音楽院が創設され、シューマンは作曲およびピアノ等を担当した。この年の創作でもっとも重要なのは、オラトリオ「楽園とペリ」(Op.50)の作曲である。人間の良心をテーマとしたこの作品はオラトリオ作曲家シューマンの新しい姿を示している。
1844年1月、シューマンはクララとともにロシアに旅行する。この旅行は5ヶ月間に及ぶ長い旅行であった。ロシア旅行ではペテルブルクやモスクワなどでクララの演奏会が各地で催され、その折にシューマンの作品も演奏されている。シューマンの描いたクレムリンのスケッチも残されている。とくにクララは皇帝ニコライ1世の前で大成功を収めた。帰国後、シューマンは精神面で健康の悪化を訴えるようになる。一家は住み慣れたライプツィヒからザクセン王国の首都ドレスデンへの移住を決める。一家がドレスデンに移住したのは12月13日のことである。
ドレスデン時代(1844年~1850年)
一家は1844年12月13日、ドレスデンに移り住んだ。新しい環境でシューマンは
バッハの作品にふたたび注目し、ペダル・ピアノ(足鍵盤つきピアノ)のための作品を作曲している(
「ペダル・ピアノのための練習曲」(作品56)、
「ペダル・ピアノのためのスケッチ集」(作品58)、「バッハの名前による6つのフーガ」(作品60)など)。 シューマンが劇的な回復を示すのは、1841年に「幻想曲」というタイトルで作曲した作品に、第2楽章と第3楽章を付加して完成した
「ピアノ協奏曲 イ短調」(作品54)によってである。
ドレスデン時代のシューマンの人生と創作
ドレスデン時代の創作は、実に多彩である。交響曲第2番が作曲され、上記の
「ピアノ協奏曲 イ短調」(作品54)、
「ピアノのための小協奏曲」(作品92)や「4本のホルンのための協奏曲」(作品86)などの協奏曲、ピアノ三重奏曲第1番や第2番(
作品63、
80)、ホルンやクラリネット、オーボエなどの管楽器とピアノのための小品集などの室内楽作品、そして歌曲とピアノ作品が書かれた。
この時期の作品の特色として、クララとの間の子供たちのための作品が挙げられる。43曲からなる
「子供のためのアルバム」(作品68)や、
「子供のための12の連弾用作品集」(作品85)などのピアノ作品のほかに、
「子供のための歌のアルバム」(作品79)といった歌曲も作曲された。子供の成長日記として作曲されたこれらの作品は、シューマンに新しい世界を切り開くものであった。
このドレスデン時代の創作を見ると1849年という年が突出している。とくに室内楽の分野では数日で一つの作品を完成するほどの爆発的な創造力が発揮された。それに数多くの歌曲や重唱作品のほかに、「ヴィルヘルム・マイスター」からの歌曲集(作品98a)や「ミニョンのためのレクイエム《ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター》」(作品98b)などの声楽作品、上に述べた「4本のホルンのための協奏曲」が作曲されている。
1849年におけるこの創作力の高揚は、1848年3月革命も影響していると考えられる。メッテルニヒ体制を打倒する革命の嵐は、最初はパリに始まったが、ウィーンに3月に飛び火し、これは大きな運動へと展開していき、翌1849年になると議会召集を求める運動がドイツに巻き起こる。ザクセンではついにいわゆる「ドレスデン蜂起」(1849年5月)と呼ばれる暴動に発展した。この革命がシューマンの心を高揚させたことは明らかである。
この時期のシューマンのピアノ作品は、自身の子供のために作曲した作品と、連作曲集に大別される。その作品は以下の通りである。
「子供のためのアルバム」(作品68)は当初、長女マリーのためのピアノのアルバムとして構想され、その後曲数を増して現在の形に落ち着いた。その過程でシューマンは「四季のアルバム」として構想した時期もあり、その発想はこの曲集にも反映されており、曲集の最後に「冬の季節」が置かれているのはその名残である。曲集は最終的に43曲の小品集として纏められた。シューマンは各作品に絵を添えることを構想したが、経費がかさむことから、立派な表紙画を作成して作品の内容を紹介するようにした。実際、この表紙画は作品の情景を示しており、作品理解に役立つ。
「森の情景」(作品82)はピアノ曲でありながら歌曲集のような傾向をもつ作品集である。ドイツ・ロマン派は、「森」を好んで題材にし、「森」はロマン主義の想像力の源泉となり、森の世界に芸術家は憧れた。シューマンは各作品に詩文が付す構想をもっていたが、最終的に第4曲を残して他の詩を削除している。「森の入り口」にはじまり「別れ」に終わるこの曲集は、「音楽の寓意」の典型である。
この時期の創作で注目されるのは室内楽である。2曲のピアノ三重奏曲に加えて、各種の編成の二重奏曲がまとまって作曲された。
1842年にピアノ五重奏曲とピアノ四重奏曲を作曲したシューマンは、その5年後にピアノ三重奏曲の作曲に取り組んだ。そして作曲されたのが
ピアノ三重奏曲第1番(作品63)である。シューマンが作曲したのは1847年9月13日の、彼の妻クララへの誕生日のプレゼントのためで、この作品について、クララは「日記」にこのように記している。「この作品はきわだって強烈で、青年的な力に満ちており、同時に巨匠的に労作されている。第1楽章は私の知っているなかでもっとも愛情に満ちたものを示している。」
ピアノ三重奏曲第2番(作品80)は第1番の完成後直ちに着手され、1847年10月25日に完成された。その後、1849年4月9日に改訂され、この改訂された形で1850年2月22日、ライプツィヒのゲヴァントハウスで初演された。この楽章でもっとも感動的なのは第2楽章で、シューマンのリリシズムを堪能させてくれる。
1849年にシューマンの爆発的な創作のほとばしりが見られる。「4本のホルンのための協奏曲」やピアノのための「小協奏曲」のほかに、一連の二重奏曲が作曲された。
1849年2月11日から13日の期間にクラリネットとピアノのための3曲からなる
「幻想小曲集」(作品73)が作曲された。ほの暗い音色を生かした第1曲と、躍動的な第2曲、そして駆け上がるような第3曲は見事な一体感をもっている。この作品の完成に続いて、1849年2月14日から17日にかけてピアノとホルンの編成で「アダージョとアレグロ 変イ長調」(作品70)が作曲された。ホルンの持ち味が発揮された傑作で、深い森のようなホルンの響きはシューマンの理想の世界を思わせる。
1849年4月13日から17日にかけてチェロとピアノの編成で「5つの民謡風小品集」(作品102)が作曲され、1849年12月7日から12日の間にオーボエとピアノの編成で「3つのロマンス」(作品94)が作曲された。3曲ともおだやかな楽想の作品で、どの曲も心に染み入るような名旋律である。
デュッセルドルフ時代(1850年~1856年)のシューマンの人生と創作
1850年9月、シューマンは、作曲家、ピアニストとして高い名声をもつ音楽家フェルディナンド・ヒラーの招きに応じて、シューマンは市の音楽監督としてライン川沿いの町デュッセルドルフに移り住むことになる。デュッセルドルフには市立劇場があり、ここは以前
メンデルスゾーンが指揮者を務めていた。ここでの彼の主な仕事は指揮であった。ライン川沿いのこの町はシューマンの心にふたたびロマン主義の理想を掻き立てるものであったであろう。赴任したこの年に連続して交響曲第3番「ライン」(作品97)と「チェロ協奏曲」(作品129)を作曲する。デュッセルドルフに移り住んだ1850年という年はとても多忙な一年であった。交響曲第3番やチェロ協奏曲の作曲だけではなく、「ヴァイオリン・ソナタ第1番」(作品105)の構想もこの年に始まる。
交響曲第3番「ライン」(作品97)はシューマンの交響曲でもっとも有名な作品で、この川の流れに霊感を得ただけではなく、ケルン大聖堂の先頭部分の増築という歴史的な意味も持っていた。5楽章からなる交響曲で、第4楽章にはこの大聖堂の印象が表現されている。「チェロ協奏曲 イ短調」(作品129)は、シューマンの唯一のチェロ協奏曲であるだけではなく、事実上、ドイツ・ロマン派のレパートリーとなっている唯一のチェロ協奏曲でもある。
1850年1月18日、ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターでヴァイオリニストのダーフィットはこのような手紙をシューマンに宛てた。「貴殿の
ピアノとクラリネットのための幻想小曲集(作品73)はとても気に入りました。ところでどうして貴殿はヴァイオリンとピアノのための作品を何も作らないのですか。」この手紙がきっかけとなって、シューマンは、ヴァイオリン・ソナタの作曲に取り組む。「ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ短調」(作品105)の作曲が行われたのは1851年9月に入ってからで、作曲は9月12日から16日までのきわめて短い期間に行われた。爆発的な創作力のほとばしりはこの作品のせきたてるような楽想によく示されている。シューマンは第1番のソナタを作曲時に、自嘲気味に今度はもっとすばらしい作品を作曲する旨を述べており、作品は3楽章で締めくくられている。続く「ヴァイオリン・ソナタ第2番 ニ短調」(作品121)は、1851年10月26日から11月2日の間に作曲された。この第2番は、揺れ動くような第1番とは対照的に、和音的な構築性が意図されており、第3楽章は変奏曲で、コラール「汝、イエス・キリストは褒め称えられん」を主題に用いている。
この1851年は、オラトリオ「ばらの巡礼」(Op111)や、シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」への序曲(Op128)、ゲーテの「ヘルマンとドロテーア」への序曲(Op136)などの作品も作曲された。
1852年になるとシューマンは楽団との軋轢にさいなまれて、精神的に不安定の度合いを増していった。この年の創作数は多くないが、とくに注目されるのは「ミサ曲」(作品147)や「レクイエム」(作品148)のような合唱作品で、これらの作品にはバロック様式に加えて
シューベルトのミサ曲からの影響も見られる。
1853年はシューマンの人生の中で、もっとも長い一年であったと言っても過言ではない。指揮者としての仕事の精神の疲労は頂点に達し、彼はこの年の11月には音楽監督を辞任する。このなかで9月30日に
ブラームスが訪問したことは、シューマンにおいては大きな出来事であった。
ブラームスの持参した
「ピアノ・ソナタ第1番 ハ長調」などの作品に接して、シューマンはドイツ音楽の新しい道を直感した。そして、シューマンは
ブラームスを世に紹介するために久しぶりに批評の筆を執るだけではなく、
ブラームスの作品を刊行させるために出版社に仲介の労もとるのである。
1853年のこの1年間の創作量の多さには驚かされる。彼は協奏曲を3曲、ピアノ作品、室内楽作品、そして
バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、パルティータ」と「無伴奏チェロ組曲」のピアノ伴奏付け、そして「子供ためのソナタ」や「朝の歌」などのピアノ作品を手がけた。
管弦楽作品から取り上げると、ヴァイオリンと管弦楽のための「幻想曲」(作品131)は、この1853年にシューマンが作曲した2曲のヴァイオリン協奏曲の一つで、単一楽章の協奏曲で、1853年9月2日から7日の間に作曲された。
「ヴァイオリン協奏曲 ニ短調」(WoO1)は、ヴァイオリニストのヨアヒムの作曲の要請を受けて1853年9月下旬から10月下旬にかけて作曲された。この時期、シューマンはたびたび幻聴に悩まされ、幻聴のなかで彼は天使の歌声と地獄の叫びを耳にするようになる。彼は天使の歌う旋律を彼は楽譜に書きとめ、この作品の第2楽章はこの天使の旋律によるとされている。作曲後、ヨアヒムはこの作品を演奏することはなく、妻クララもこの作品を演奏することを望まなかった。このような経緯から作品はその後演奏されることなく、1937年にベルリン図書館に収蔵されたヨアヒムの遺品から発見された。
ピアノと管弦楽のための「序奏とアレグロ」(作品134)は、シューマンがブラームスに献呈した作品で、劇的で荒々しい序奏と、平安に満ちたアレグロという構成である。
この年のピアノ作品は重要である。1年の間にこれほどの多くの作品が作曲されたのは1840年代以降はなかった。
「フゲッタ形式の7つの小品」(作品126)は7曲からなる曲集で、各作品とも定型的なフーガの書法で作曲されている。面白いことに奇数曲、すなわち第1曲、第3曲、第5曲、第7曲は調性とは無関係にハ音で開始しており、偶数曲はニ短調(第2曲、第4曲)か、ヘ長調(第6曲)となっている。
「子供のためのソナタ」(作品118)には3曲のソナタが収められ、ユーリエ、エリーゼ、マリーのシューマンの3人の娘に捧げられた。作品が作曲された当時、第1番を献呈されたユーリエ(1845-1872)は8歳、第2番を献呈されたエリーゼ(1843-1928)は10歳、第3番を献呈されたマリー(1841-1929)は12歳である。作曲に当たってシューマンはそれぞれの娘たちの演奏技術というよりも、それぞれの性格や気質――ユーリエは「柔和で魅力的」、エリーゼは「明朗で如才なく」、マリーは「早熟で気丈な」気質――を考えて作曲した。
「朝の歌」(作品133)は、1853年10月15日から18日にかけて作曲された。この作品は「ディオーティマに寄せて」と言い表されることがある。「ディオーティマ」はヘルダーリンの詩です。この詩と結びつけた解釈は一つの仮説ではあるが、作品を理解する一つの手がかりとなるであろう。
1854年になるとますます幻聴は激しくなり、シューマン家は緊迫した状況が続いていた。長女マリーは多忙なクララに代わってシューマンの身辺の世話を行うことも多くなる。「天使の主題による変奏曲」(Anh.F.39)は、そのような状況にあった1854年2月21日から28日の間に作曲された。主題は彼が幻聴の中で聞いた天使の歌で、この作品の作曲の経緯についてはクララが日記に記している。
2月26日、家族と弟子のディートリヒとともに過ごしていたとき、シューマンは突如、「自分は精神病院に行かなければならない」と言い、その翌日(27日)、彼は発作的に家を飛び出して、ライン川にかかる浮橋から身を投じるのである。このときに彼は「天使の主題による変奏曲」の第4変奏曲を浄書した段階であった。運よく通りかかった船に助けあげられた彼は、28日、第5変奏曲を完成させるのである。
シューマンは1854年3月4日、ボン近郊のエンデニヒの病院に移り、その後の人生をここで過ごすことになる。この病院で彼が最後に手がけたのが、パガニーニの「カプリス」のピアノ伴奏付けであった。
その後、エンデニヒの施設でクラスシューマンをブラームスやヨアヒムらが見舞っているが、クララは医者の指示で面会が許されなかった。1856年7月、シューマン危篤の報を受けて7月23日、エンデニヒの施設を訪ねるが出来ず、27日に2年半ぶりに面会する。シューマンは29日死去。7月31日にボンの墓地に埋葬された。